「知性と芸術」の分際ー 「ポスト真実」ー私たちに「世界」はどう見えてるのか

「知性と芸術」の分際ー

「ポスト真実」ー私たちに「世界」はどう見えてるのか



『ロマン・クオリアリズム』-RQ Roman qualiaism とは反体制、反権威、反アカデミズムというカウンターカルチャーの概念をオルタナティブな世界観により、「クオリア」の共有化とセグメンテーションを図るものである。「ポスト真実」の時代においては、学者や議員の「常識」や「豆知識」など何の意味を持たない。全て没交渉である。これからの世界の創造は「芸術家」と「科学者」によるオルタナティブな創造的対決というダイナミックな構図が必要なのである。知性の世界と芸術の世界では映っている世界が全く違う。

人類のパラダイムシフトを呼び起こすためには、「学者」や「議員」と呼ばれる層のその射程の「狭さ」への反動として、政治思想、哲学、神学、自然科学、歴史思想、へとその思想射程を拡大し、様々な領域を超えた〝ロマン・クオリアリズム〟という共同性。抽象的正義を超えた、圧倒的な正義の領域を包摂し、律する芸術運動を展開していく必要がある。

過去(=記憶)を未来(=願望)に投企する時間制が存在しなければ問題解決は図れない。なぜならこの2つは、あらゆる経験的認識に先立って認識されている概念だからである。

時間および空間はアプリオリな概念である。「ポスト真実」の時代においては、重要なのは、我々が見ている世界が、ありのままの現実の世界であるかどうかではなく、見ている世界が同じかどうかだ。同じ世界を見ていればコミュニケーションが可能となり、人とコミュニケーションがとれるということは、少なくとも、同じ「世界観」を共有している。世界は3次元空間からなり、自分はその世界の地面に描かれたラインに沿って走っていると認識しているわけではない。このことは、その生物にとっての世界は、その生物がどのように処理しているかに依存しているのだ。だから、世界を3次元空間として処理して初めて、世界は3次元空間として立ち現れてくるのである。

私たちは網膜に映った「像」を見ているわけではない。視覚神経処理によって「世界」という『像』にしているのである。世界を変えるために、主観世界を分析するには「貧困」や「差別」の「内側」からの視点から周囲世界を観察しなくてはならないのだ。クオリアは脳細胞が我々に見せている「芸術」であり、「芸術」が重要なのは、重要であることがその機能だからである。「芸術」は、追い求めるに値する人生を持った自己を、人間のうちに作り出すように設計されているのだ。

「芸術」とは世界についての知識を外部から獲得するのではなく、世界のイメージを『内部でみずから構成していく』ということになる。いわゆるラディカル構成主義と呼ばれている概念である。人間の認知活動とは、外部の客観世界のありさまを直接見出すことではない。大事なのは、試行錯誤をつうじて周囲状況に『適応』することなのである。ここで『適応』というのは、何らかの行動をした結果を自分の世界イメージにフィードバックすることだ。 世界の変革は、外部の客観世界を正確に認知していくのではなく、環境世界に適応するように主観的な世界を内部構成していく過程に他ならない。それがベースであることは、現代人でも共通である。要するに、現実に地上に存在するのは、個々の人間の『主観世界』だけなのだ。まずは、「クオリア」に彩られた生命的な主観世界から出発しなくてはならないのである。 自分の概念構造にもとづいて行動してみて、うまくいけばそれでよし、失敗したら概念構造を変更するのである。ポイントは、所与の概念構造への一致は要求されない、という点だ。 つまり、「クオリアの問題」なのである。

「赤さ」というクオリアが物理現象でない芸術だとすれば、「何故」、その芸術を物理機構である脳が感知できるのか。それこそ、人間ごときのの小さな脳では理解などできない。科学者はそれを「謎」としてホムンクルスまで持ち出してアプローチを探求するが、「芸術」の存在意義は「科学」とも「哲学」とも違う。人間には不思議が存在する。「不思議」は「不思議」であって、決して「謎」ではない。科学者が「不思議」を「謎」と誤解し、もっともらしい「解答」を導き出しても、こうした「謎解き」は、所詮こじつけの「レトリック」に過ぎないのである。とはいえ、ここが「芸術」の難しさであり面白いところでもある。丁寧に説明して分かりやすくなったからといって、良い「芸術」になるとは限らない。説明を最小限にとどめ、「観客」の感性に委ねるからこそ「観客」の中で何倍にも面白さが膨らみ、大きな感動を呼んだりするのだ。クオリアという言葉に出来ない「アレ」を表象することにこそ「芸術」の存在意義があるのだ。

0コメント

  • 1000 / 1000