What's ArTU?

「芸術」の不足



日本では「芸術」は社会とは隔離された“技能”として語られていたころ、『バウヒュッテ-フォルケホイスコーレ』では経済・社会をまったく変える可能性を持つ“力”として「芸術」を捉えていました。「フォルケ」に行くと、世界が今注目している課題は何なのかということが見えてきます。

日本の「芸術」教育の最大の問題点はアカデミーやカウンシルが「芸術」がわからない。つまり、オルタナティブな世界的視野を持ち解読し表現する能力が圧倒的に欠落しています。些末な技能よりも理解や共生という基礎能力の獲得、「芸術」理解をじて経済至上主義の国民意識の改革、あるべきオルタナティブ社会像の模索。これらの日本人の欠落している多くの問題は、「芸術」教育の失策が最大の原因なのです。

「芸術」の理解とは人間そのものの理解であり、この行為は人類最大の難題を背負うということなのです。つまり、歴史や社会史を前提とし、文化人類学を理解し、各時代の法体系を捕らえ、宗教学体系を知る。つまり万物の生存を包括的基礎教養として獲得する以外に全ての「芸術」要素を理解することが不可能なのです。表現の理解、解釈はどこまでも実証的であり、科学的なものです。観念の背景にある実在を立証する作業は不可欠であり、思想や言語学にも精通する必要があります。

技術教育としての美大の役割は終焉しています。技能や表現精神などは、カルチャーセンターで充分なのです。人間の相互理解を深めることは「芸術」教育以外ではありえません。コミュニケーションの背景には文化と教養が不可欠なのです。この視点を大切にすることが何よりも重要なのです。

「学習」とは、教えられることではなく、「能力」から選択すること。いいかえれば、組み込まれていない「能力」は出てこないという制約があります。「教育』によって『芸術』を得るのではなく、すべての人間は生まれもって芸術家であり『芸術』が「デフォルト」なのです。

いまや、「芸術」を学べる情報・映像が過去から現在のものまで時間性・距離性を超えて広く安価に世間に行き渡ってきており、今さらアカデミーやカウンシルに「芸術」の偏見を植え付けられ、美意識を窒息させられる必要はありません。タブレットとグーグルさえあればいつでも、どこにいても、距離性・時間性を超えて世界中のあらゆる情報世界を縦横無尽に駆け巡ることができるのです。

つまり、「芸術」アカデミーやカウンシルなどは無いのが最高であり、教師など不要です。ルドルフ・シュタイナーは言う、良い教師とは空気のごとしと。つまり、「芸術」とは、人間の自己学習アルゴリズムのことなのです。

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