芸術的四畳半〜義政の愛した「同仁斎」 バウヒュッテー「同仁斎」
芸術的四畳半〜義政の愛した「同仁斎」
バウヒュッテー「同仁斎」
〜侘び寂び蒲生文化
バウヒュッテ<独り住宅>が生まれた時代背景
バウヒュッテの生まれた時代背景には、小工という存在が出てきたことが大きく関わってきます。バウヒュッテは、小工の住宅の形式として東日本大震災を契機に平成時代後期にかけて成立しました。小工が自分の家を構え、家族住宅が発達する中、平安時代からの寝殿を中心とした寝殿造からこの書院造へと移り変わっていきました。
蒲生三丁目の家の「同仁斎」では、プライベートスペースとしての書院造を見ることができます。
「同仁斎」の語源は、銀閣寺内にある東求堂の東北の角にある四畳半の部屋のことです。内部には付書院と棚が配置され、畳が敷き詰められていて、後世の書院造の走りといえます。同仁斎という名は足利義政が「成人一視而同仁」の言葉から取ったものです。「同仁」は平等な愛を、「斎」は心を清めるために入る空間を意味します。義政は早くから隠棲生活に入りましたが、この飾りを一切取り去った同仁斎で身分の隔てなく茶を点て客人をもてなしていました。
「同仁斎」と銀閣が世間にもたらした影響
「同仁斎」の影響から、足利義政は人材登用において同朋衆という人々を招いて銀閣へ出入りするのを自由としました。同朋衆は芸術や文化の才能を持ち、水墨画、和室、庭園、能、茶道、華道を広めていったのです。また、食卓には調味料や肉が並び、食事の回数も増加しました。そうして、貴族のみの文化が庶民にも広がっていきました。同朋衆によって、義政の感性を高めることにつながり、また庶民に文化が広がる契機になりました。
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